
ランカウイ1日目。本日から花粉避難
でマレーシアに行きます。
まずはランカウイは離島のレバック島に、
その後ランカウイにもどり最後は
クアラルンプールに移動し月末まで
過ごします。
シンガポールにも行くかも知れません。
昨日は成田に前泊しましたが、
ホテル宿泊客の90%が中国人で
驚きました。近いうちに日本は中国
に占領されていまうのか、、
と言う恐怖さえ覚えます。
さて、、
■増山の起業日記 その22
父親と私の幼少期の関係性は
私のその後の人生に大きな
光と影を落とすことになった、
と言うところからの続きです。
父は昭和一桁生まれ。戦後の
高度成長期の企業戦士の典型的な
サラリーマンでした。
幼少期に父が家に居た記憶は
あまりなく、日曜日も仕事に
出かけるのも日常茶飯事。
たまーに日曜日家に居ても
寝ていました。そんな父の趣味は
日曜大工。
棚を作ったり庭の濡れ縁を
作ったり。子供の私から見たら
それは楽しそうでした。
「お父さん、僕にもやらせて」
「お前は小さいからダメだ」
「そんなこと言わないで手伝うよー」
「仕方ないな、じゃあ板を
ノコギリで切るからソッチを
押さえてくれ」
ギコギコ、、、ズリッ、、
「なんだ板を押さえることも
出来ないのか、やっぱりお前は
役立たずだな」そんなやり取りが
非常によくありました。
力がない子供と力がある大人。
大人がノコギリを引いたら子供が
押さえた板がズレるのは当たり前
です。
父は無意識に「役立たず」と言った
のでしょうが、私の潜在意識には
「僕は役立たずだ」が刷り込まれて
行ったのです。
このことに気がつくのはかなり
年月が経ってからになります。
私のすべての原動力は
「役立たずだと生きて行けない。
だから役立たずなんかじゃない」と
言う存在証明になって行きました。
使い物にならないことは「死」
を意味する。んな大袈裟な、と
思うかもしれませんが小さな子供は
親が絶対的な存在。
親に見捨てられないように子供は
子供なりに必死で生きているのです。
つまり生きて行く上で私は役に
立たないと死を覚悟しなければ
ならないのでした。
草野球チームに入っても空手の町道場
に通っても、居場所を見つけるために
結果を出さねばならない。
思えばいつも必死でした。
趣味の世界でも楽しめずストイック
な方向に行ってしまうのも父親との
関係性が影を落としたのです。
話を起業時に戻します。
「ノウハウ提供型セミナー」を繰り返し
開講するだけでは受講生の結果を
出してあげられることにはなかなか
貢献出来ない。
一体全体私の起業家としての生きる道は
何処にあるのだ?そんな迷路に入り込んで
しまった私にまたまた非常に困難な
出来事がまっていたのでした、、、
明日に続きます。
世界一自由を満喫している不動産投資塾の塾長
一級建築士 増山大
サイトURL:私は役立たずな男、でした
—–